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「です・ます」調と「である」調

  ある日のこと、ホジャは息子を連れて遠い村へでかけることになった。ロバに鞍をつけいよいよ出発ということになって、ホジャは考えた。

「息子が疲れてはかわいそうだ。やつはロバに乗せていこう」

遠慮する息子を無理やりロバに乗せて、自分はロバの手綱をとって、てくてく歩いて行くと、これを見た通りがかりの人たちが驚いて言った。

「おやまあ、いまどきの若者はなんちゅうこった。年寄りの親を歩かせて自分はのうのうとロバに乗って行くよ。恥ずかしくないのかねえ」

 これを聞いた息子は、

「だから、言わんこっちゃない。おとっつあんが乗りなってば。もう頑固はなしだよ。おいら、歩いたほうが楽なんだから。さあ、さあ」と、息子はホジャをロバに乗せ自分は手綱をとって歩き始めた。しばらく行くと、また二、三の人に会った。その中の一人が驚いて、ロバに乗っているホジャに声をかけた。

「なんてこった、とっつあんよ。あんたさん、それほどよぼよぼの年寄りじゃあるまいに。この日照りの中、芽を出して間もない若木を歩かせたりしてさ。ひどい親もあったもんだ。大事なせがれがお陽様に焼かれてひからびても平気なんですかね?」

 これを聞くと、ホジャは、

「なるほど。それもそうだ」と、今度は息子も自分の後ろに乗せた。こうして、二人でロバに乗りどんどん進んで行くと、また何人かの人に会った。すると、その中の一人が目を丸くして叫んた。

「いやはや、ひどいことをするものだ。一頭のロバに二人の人間が乗るなんて。しかも長旅にねえ。かわいそうに、あのロバを見ろよ。疲れてよれよれじゃないか。動物ったって情というものがないのかねえ、情というものが」

 これを聞くと、ホジャは怒りだし、ロバから飛び降りると息子も降ろし、ロバには何も載せずにその後をとぼとぼ歩いて行った。しばらく行くと、また数人の人に出会いました。すると、その中の一人が、

「おやおや、あきれたこともあるものだ。ロバは空身で飛んだりはねたり楽々と前を行きよるに、人間様は、このくそ暑いさなか埃だらけ、土まみれ、汗水流してはーふー、ひーふー後ろからついて行くよ。世の中にゃあ、こんな馬鹿もあるもんなんだねえ。おつむがどうかしちまったんじゃねえか」と言った。

 ホジャは道中であった人々の言い草にはほとほと閉口し、苦りきった顔で、

「いやはや、人の口のはからのがれることの出来る奴がいたら、大したものだ」と、独りごとを言ったんだとさ。

 

 上のホジャ話はうちのかみさんが世間の口から逃れるのは難しい(ロバと息子)というタイトルで「です・ます調」で書いたテキストを「である」調に書きかえたものだ。「です・ます調」は丁寧な口調(あるいは文体)で、女性の文章はほとんどが「です・ます調」だが、むかし活躍していた文芸評論家の中村光夫さんも「です・ます調」で書いていたから、「です・ます調」が女性の文体であるとは必ずしも言い切れない。例えば、小学生の教科書の場合のように、大人が子ども達に何かをやさしく丁寧に説明しようとする時には「です・ます調」になる。要するに、威圧的・断定的な押し付けがましい口調や文体を避けようとすれば、男でも女でも「です・ます調」を選ぶのだろう。

 「である」調は比較的に断定的で、主に男性が用いる口調(文体)だが、まれには女性だって「である」で語ったり、書いたりすることもある。ときどき新聞に登場する社会学者の女性の文章などは「である」調であって、別に不自然さは感じない。

 外国語にだって丁寧体の表現とざっかけ(押し付け)体の表現とがあり、例えば二人称(you)については、フランス語やロシヤ語や丁寧に(あるいは親近感をこめて)言う場合と、ある程度距離を置いて言う場合とでは違っているが、英語や中国語では、この点での区別はない。これは単語レベルの問題だが、文体レベルでの丁寧体と断定・押し付け体の区別は、外国語の場合にはあまりないのではないか(これは、それほどたくさんの根拠に基づいて言っていることではないが)。この点で、「です・ます」調の口調(文体)と「である」調の口調(文体)がほぼ共存して自由に使われている日本語の世界は、世界の全体的な傾向から見れば、やや例外的なケースなのかもしれない。

 民話の場合で言うと、むかしむかしで始まる昔話を語ったり書いたする場合は「です・ます」調が適しており、ホジャ話のような笑い話はどちらかといえば「である」調で語ったり書いたりした方がいい。うちのかみさんはもちろん女性だったから(あたりまえの話だが)、ホジャ話を翻訳・再話するときに「です・ます」調を用いた。ここにちょっと乗り越えがたい壁があることは、彼女がこの作業と取り組み始めた時点から感じていたが、なかなか言いずらいことだった。英語ではこの問題がないから、アリス・ケルジーの場合は、ホジャ話をトルコ語から英語に翻訳・再話する場合に、こうした矛盾に直面することはなかった。それを日本語に訳した岡村和子さんは、もちろん子ども向けに「です・ます」調で書いたから、それに影響を受けたかみさんはどうしてもその範囲を超えることはできなかった。

 それに、外国の民話を日本語に翻訳・再話する場合に、社会的な慣習とか食べ物とか宗教的な観念とか儀式など、日本人にとっては耳慣れないものを伝えようとする場合にどうしても説明的にならざるを得ない。したがって、外国の民話を日本に紹介しようとする場合に、それらのことを現地で確かめて、その知見を付け加えて翻訳・再話しなければならないのだから、実を言えば、科学技術の翻訳などよりはるかに難しい世界なのだ。私は職業的には特許文献の英訳を生業としていたので、こうした科学技術分野の翻訳の方が、民話の翻訳よりはるかにやさしいことを体験的に知っている。

 このあたりのことで、まだ論じなければならないことは山ほどあるが、それにしてはまた後日、すこしづつ書き込むことにして、要するに、ホジャ話のような笑い話は「である調」の男性的な口調(文体)で紹介した方がいいと、私は思う。ホジャ話のような笑い話は、どちらかと言えば男どもの座談の場を通じて語り伝えられてきたのだから。その意味で、かみさんがトルコ人からじかに聞いたり、トルコ語で読んで「です・ます」調で翻訳・再話したホジャ話を「である」調で語りなおすことは、私に残された課題なのだ。

 
| トルコ文化研究所及びこのサイトについて | 09:57 | comments(0) | - | pookmark |
ホジャ話を語る

 ホジャ話は1964年に岩波書店から「岩波おはなしの本」シリーズの一冊として『天からふってきたお金』(アリス・ケルジー文、岡村和子訳)として出版されてから、日本でもひろく知られるようになった。翌年に、護雅夫の『ナスレッディン・ホジャ物語』(東洋文庫シリーズ、平凡社)が出版されたが、こちらは一般向けの本ではないので、読者層が限定されていると思う(それでも、初版が出版されてから私の手元にある1993年の版までに14回増刷されているから、かなりの人が読んだのは事実だ)。うちのかみさんは1970年代の終わりのころに岩波書店の本でホジャ話を知り、それにすっかり魅入られてしまった。そのホジャ熱がわたしにも感染し、二人でトルコ語の勉強を始めるは、かみさんはトルコに語学研修に出かけて三年目にはアンカラ大学の大学院の修士課程に入学してしまうは、彼女が帰国してからトルコ文化研究所を設立してトルコの民話を紹介するための季刊誌『ふっくら』の発行を開始するはで、私たち夫婦の人生の後半部分にはホジャの影響がすこぶる大である。

 かみさんは、トルコから1991年にトルコから帰国してから2006年に他界するまでの15年間に彼女は日本各地でトルコやホジャ話について語る機会を与えられ、自分でのおはなし会を開催してホジャ話を語り続けた。その間、彼女の生前には彼女の語る話を壁の後で、彼女が他界してから後は彼女の仲間たちの語る話を部屋の片隅で聞き続けたから、ストーリーテリング活動の現場に居合わせたのはほぼ16年か17年で、ベテランのストーリー・テラーからは「男性としては稀有な存在だ」と認められている。その間、わたしは聞くだけで、自分でホジャ話を語ったことは(何回かの講演会で話題として紹介したことを除けば)皆無だし、自分としては肉声で語るつもりはまったくなかった。

 ところが、先日、そのベテランのストーリー・テラーから「そろそろホジャ話を語りなさいよ。そもそも、ホジャ話って女性が語るのにはちょっと無理があるのよ。男性の話なんだから。自然体でやればいいのよ」と言われて、なんとなく思い当たる部分もあった。

 うちのかみさんも『天からふってきたお金』のテキストでホジャ話を語り始めたが、アリス・ケルジーはアメリカの子ども達にこのユーモアに富んだトルコの民話を紹介するために、かなり創造的な要素を付け加えて物語風に再話しているので、トルコの民衆の伝承の世界にあるホジャ話とはかなり違ったものになっている。ただ、それぞれの話のエスプリは正確に表現されていて、アリス・ケルジー女史はかなり文学的な才能を備えていた人だろうと推測される。英語版を読んでみると、彼女の英語は抑揚に富んでいて、しかも節度が効いており、この本がアメリカの子ども達にホジャ話を紹介する上で、大きな役割を果しただろうと思われる。

 ただ、トルコでのフィールド・ワークや資料の収集を通じて、トルコで一般の人たちが語り伝えているホジャ話を知るにつけて、かみさんも私もアリス・ケルジー的な世界からの脱出の必要性を感じ始め、私たちなりの言葉でトルコ語から、私たちなりの言葉で訳して再話してみようと思い立った。それが、1992年から2006年まで、全部で59号まで発行した『ふっくら』という小さな雑誌の出発点だった。この15年間の間に、私とかみさんはホジャ話について、その再話の仕方について、何百回話し合ったかわからないほどだ。その会話を通じて、外国の民話を訳すという作業がそのようなどのような落とし穴とどのような困難さを伴うものか、徐々に理解できるようになった。私たちが『ふっくら』を通じて紹介したホジャ話は200話程度であるが、これは、ほとんどがかみさんがトルコ語のテキストから訳し再話したものを、私と二人で検討して決めた日本語のテキストなのだ。『ふっくら』は季刊誌だったので、三ヶ月毎に発行しなければならず、その時期が近づくと挿絵の問題も含めて討論・喧嘩の連続だったが、今となっては楽しい思い出だ。

 イスラーム社会という、私たち日本人にはほとんど理解を絶している(と一般的には思われている)社会で中世から語り伝えられて来ているホジャ話を、二十一世紀の初頭に生きている日本人に、文章や語りを通じてどのように紹介したらよいのか、七十歳を越えたじいさまにはかなりチャレンジングな課題なのだが、逆に、「七十歳を越えたのだから、そろそろ自分の肉声で語ってもよいのかな」という気持ちもある。私の手元にあるトルコ語や英語などのテキストなどに目を通してざっと500話ぐらいあるホジャ話には、私たちのようなごく普通の人間が体験するさまざまな葛藤と、それに対するホジャのユーモアに満ちた警句が満ちており、しかも笑い話の形式で語られているので、押しつげがましさがない。どう理解するかは読み手や聞き手にまかされているのだ。私もそろそろホジャ話を語り始めようかな・・・と考え始めている今日この頃なのだ。

 
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ほぼ百年前のホジャの本(6)

五回に分けて紹介したチロル卿の文章のほかに、このほぼ百年前のホジャの本には、翻訳者のバーンハム氏自身の序文も付けられていて、ホジャ話を含むトルコの民衆文学がどのように英国に伝わったかということを多少理解させてくれる文章なので、それも合わせて紹介しておく。

 

「トルコのフォークロアについては、ウィリアム・ウィタール卿(故人)、A.ラムゼイ、それにH.C.ルーク氏などの著作があります。すべて、ナスレッディン・ホジャの人柄を紹介するもので、よく知られたホジャ話をいくつか引用しています。すでに、1855年に、いくつかのホジャ話がキャメルローヘルによってドイツ語に訳され、トリエステで出版されています。1884年には英国のイプスウィッチでもホジャ話に関する本が出版されましたが、それは個人的なサークルで回覧される形式のものであり、150部しか印刷されませんでした。表題は「トルコの道化者、あるいはコージャ・ナスル・エッディン・エフェンディの愉快な話」と題されており、「ジョージ・ボロウによるトルコ語からの翻訳」とされていました。これが、英国で一般大衆向けに出版された一番最初のホジャ話に関する本です。

 二十年ほどまえには、トルコ人とかトルコ人と親しい関係を有する外国人には、もっと多くのホジャ話が知られていたにもかかわらず、トルコ語で印刷されたホジャ話はおそらく50話にも達していませんでした。本書の原本として用いられたものは1909年にコンスタンチノープルで出版されたもので、その編集者は「ホジャ話の採集に多くの年月を費やしたものの、アブドゥル・ハミドの統治時代には英語への翻訳の許可を得ることが困難だったので、時代と社会が変わるのを待つしかなかった」と書いています。1908年のトルコ革命と新憲法の公布直後に、彼はより信頼できる話を入手するために一般公衆に呼びかけを行ったところ、380話程度の話(短いエピソードを含む)を集めることができました。その後に、多くのトルコ語でのホジャ話に関する本の出版が続き、それらの本には個々の話の正当性を示すような脚注も添えられていますが、中には同じ話を複数のバージョンで紹介している本もあります。いろいろな物語が口承で世代から世代へと伝えられてきたのですから、採集された話に違いがあるのはごく当然のことです。本書では、かなりの話を割愛しましたが、それは話としても面白くないし、良俗に反するものであったり、トルコ語でこそそのユーモアが伝わるものであっても、英語に訳してしまうとその面白さが伝わらないからです。

 挿絵はハーリッド・エフェンディというトルコ人の画家によるもので、芸術性という点ではそれほどの評価はできませんが、トルコ人の特徴、服装、そしてそれを含む環境は誠実に再現されています。

 ホジャは五百年ほど前に生きていた人物ですが、彼の同時代の人と同だけでなく現代を生きている人々にとってもホジャは魅力ある人物です。それは、昔も今も民衆の暮らしはほとんど同じだからでしょう。彼の記憶は今でもトルコ人の間で鮮明であり、彼のお墓には宗教的な装いはまったくないにも係らず、今でもトルコの人々がよく巡礼で訪れる場所になっています。トルコ人は多くの『聖人』を持っていますが、『ホジャ』(教師の意味がある)だけはたった一人です。彼が言ったりやったりすることのすべてにおいて、ある種のわんぱくさと風変わりな要素があり、それが人を笑わせ、人と人を近づけさせているのですが、同時に、聖なるもの及び現実性を受け入れる一種の辛抱強さのようなものを感じさせてくれます。彼の名前は、トルコ語が話されているところでは、誰にでも知られています。地方の町や村のお茶屋(イギリス人にとってのパブみたいな場所)に集まる素朴でターバンをかぶった市民達も、長旅から戻って隊商宿でくつろいでいる旅行者達も、山懐で焚き火のまわりに集まっている山賊たちも、これらの話を語ったり聞いたりすることに同じ喜びを見出しているのであり、彼等はそうする時に、ずっと昔にいたこの男(訳者は著者はジェントルマンという言葉を使っているので、ある程度ホジャに対しては敬意を払っているようです)の影を肩越しに感じているのであり、どこか近くに身を潜めて、耳を傾けたり笑ったりしているような不思議な感情を持つのです。

 この英語版はトルコ語のテキストがもつ魅力は伝え得ていないかもしれませんが、翻訳者としてはこれらの話をつまらないものと受け取ってくださらないことを望むばかりです。一日の仕事を終えて家に戻ったら、スリッパを履き、たぶんパイプをくわえて快適な肘掛椅子にでも座って、『ホジャ』を味わってみてください」

 

 このバーンハム氏の序文の方が、チロル卿の文章より、ホジャの心によっぽど近づいているように感じる。

 チロル卿とバーンハム氏の文章を読んだ後に、平凡社の東洋文庫シリーズの『ナスレッディン・ホジャ物語』(護雅夫訳、1965年)の「つけたり」(護さんによるホジャ話についての解説)を改めて読み直してみて、いろいろな感想をもった。それについてはまた徐々に述べてみたいと思うが、ひとつ気がついたことは、護さんの翻訳は、1950年代に出版された3つのテキストと、1960年代に出版された1つのテキストを原本として利用していることで、これらの本はバーンハムさんが翻訳したオスマン語による原本からは半世紀ほど後に出版されたものである。だから、イギリスに伝わったホジャ話の方が、護さんによって日本に伝えられたホジャ話よりも半世紀分は古いバージョンであり、この半世紀の間に、同じ話がどのように変容したかについて調べるための手がかりを与えてくれそうだ。バーンハム氏も書いているように、伝承される話は口承でも書承でも必ず変容していくものだから、どちらを正調ホジャ話とするかというような議論は無駄だと思うが、その変容の仕方を調べたり、上辺は変っていても変らないエスプリの本質について確認することは、たぶん意味があることだろうと思う。

 
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ほぼ百年前のホジャの本(5)
 チロル卿の序文の続き。

 

「覚えていなければならないのは、チムールもバヤジットも共にイスラーム教とであったことで、バヤジットがスミルナで打ち破った十字軍の騎士達の首を切り落としたのと同様に、チムールも抵抗した都市の市民や敗北したバヤジットのトルコ人兵士たちの首を切り落としてピラミッドを築いたとしても、彼は正午の礼拝にはきちんと出席して、神に祈りをささげたのだ。支配者達が入れ代わったからといって、それがどれだけ民衆の生活に影響を及ぼしたかについては、たしかなことは分からない。当時の民衆は激しく戦い合う軍勢の間で踏みつけにされることには慣れっこだったので、ナスレッディン・ホジャの話にもそうした出来事はひとんど反映されていない。それでも、彼(ホジャ)がチムールの宮廷では道化者を演じて人気を博したとしても、賎しいおべっかを使って、自分をいやしめることは決してなかった。ある時、チムールがホジャに向かって、裁きの日には自分の身に何が起きるのかを訊ねると、「神様はその問題についてはちっともお迷いにはならないでしょうよ。ジンギス汗だってフラグ汗だってまっしぐらに地獄送りになったのですから、あなたさまが彼らより名誉な場所に送られるはずはありませんぜ」とホジャが答えたという話が伝わっている。これは、五百年後に、アブドゥル・ハミドを不愉快にさせたたくさんのホジャ話のひとつに過ぎない。

 しかしながら、ホジャ話のほとんどは貧しい民衆の日常生活に関するもので、彼らの奇妙な振る舞いや弱点、家庭内でのいさかいや社会的な身分の相違、彼等が耕していた農園や飼っていた動物たちが話題になっている。それらの出来事に、ホジャはホジャなりのやり方で対処している。他のユーモリスト達と同様に、ホジャは他の人を笑いのめすだけでなく、自分自身をも笑いのめしている。彼がイマームであったにもかかわらずだ。さらに、彼の宗教的な信条さえ時には笑いの素材に使われている。彼が死の床について、いよいよ最後に時期が近づいてきた時にさえ、自分のまわりをうろついている死神を、自分の女房の方に押し付けようとしたりしている。実際、彼はいつでも普通の人間として振舞ったのであり、その故に、アクシェヒルにある彼のお墓は今でのトルコの人々の巡礼の場所になっているのみならず、彼の話は人間味を感じさせる物語を理解できるすべての国の人々に訴えかける魅力を持っているのだ」

 

 以上が、1923年にロンドンで出版された『ナスレッディン・ホジャの話』の巻頭に置かれているチロル卿の文章だ。やや大雑把で、史実についての認識も、ホジャ話のような伝承文学についての理解もいささか不十分であるような気がするが、当時の英国人が、トルコという国とトルコ人及びその文化についてどのような認識を持っていたかということをわずかに理解させてくれるという点で、極めて興味深い文章である。

 おりしも、2012年の初頭に、フランスでは、トルコ革命の過程で起きたさまざまな出来事について自由な発言を禁止する法律が制定された。私には、チロル卿の文章のこだまを聞いたような感じがする。ホジャ話は、チロル卿が書いているようにアビュドゥル・ハミド(オスマン帝国の最後の皇帝)を不快にさせたが、現代のイギリスやフランスの体制側の人物に対しても、辛辣な皮肉を投げかけているのだ。

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アルメニア人虐殺否定禁止法(フランス)

インターネットの情報によると、フランスで二十世紀初期に起きたアルメニア半島におけるトルコ人によるアルメニア人虐殺を公の場所で否定した場合に投獄される法案がフランスで成立したそうだ。このことについては、二週間ほど前にこのブログで紹介しておいたが、まさか本当に成立するとは思わなかったので、驚き、呆れ、びっくり仰天している。たとえば、アメリカ人によるアパッチ族虐殺を否定したら投獄されるとか、日本人による南京大虐殺を否定したら投獄されるというような馬鹿げた法律で、言論の自由を圧殺するに等しい。

この出来事は、トルコ近代化の過程で起きたさまざまな出来事のひとつで、日本人には関心の薄い問題だが、現代史にいまだに余波が打ち寄せている問題なのだ。この問題についてはいずれ詳しく紹介するが、なぜ、現在の時点でこんな馬鹿げた法律がフランスで成立したか、ということが興味深い。たぶん、EUがトルコの加盟を決定的に拒否したというシグナルであり(その背景にはキプロス問題の影が尾を引いており)、イランの石油を輸入し続けるトルコに対する恫喝であり、いずれはトルコのNATOからの脱退とか、中近東におけるパワー・バランスの大変化につながる可能性がある。

フランスは言論の自由のチャンピオン国家だと思っていたが、どうやら、その幻影は崩れ去った。

 
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ほぼ百年前のホジャの本(4)

チロル卿の序文の続き。

 

「彼はトルコ系の征服者達が西部アジアの初期のイスラム国家や東欧のキリスト教王国や候国の廃墟の上に巨大な帝国を急速に建設しつつある時期に成長した。トルコ人達はまだコンスタンチノープルを征服してはおらず、そこではまだビザンチン帝国が生き延びていたが、トルコ勢力の包囲下にあった。ところが、1400年に、当時、ユルドゥルム(稲妻)という威名で怖れられていたスルタン・バヤジットが偉大なジンギス汗の子孫であるチムールに捕らえられてしまった。チムールが率いるタタールの軍勢が中央アジアから侵入してきて、バヤジット以上の稲妻を行使したという訳だ。十字軍をダニューブ川沿いの地域で壊滅させたトルコの軍隊が、アンゴラ近郊でチムールの軍勢によって圧倒され、殺戮されてしまったのだ。しかし、この出来事はトルコの『ナショナリズム』の夜明けよりずっと前のことで、ナスレッディン・ホジャは勝利者であるチムールに忠誠を示すことにためらいはなかったようである。彼は、チムールの宮廷で大きな人気を博したのである」

 

 チロル卿はホジャの実在を前提にしてこんな文章を書いているが、事実認識についても、ホジャ話のような伝承文化についての理解も不正確なようである。ここではいちいち指摘しないが、当時の英国のエリートのトルコ史とかトルコ文化に対する理解がこの程度のものであったということは、記憶にとどめておいてもいいと思う。

 
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ほぼ百年前のホジャの本(3)

チロル卿の序文の続き。

 

「トルコ人の間では父称はほとんど使われないので、ナスレッディン(チロル卿はこれに『信仰の勝利』(Victory of the Faith)という注釈をつけているが、これについては異説もある。文末参照)という名前は、これらの物語の主人公に両親が付けた名前であり、ホジャという名前は主人とか先生を意味する言葉で、彼が後になって得たある程度の敬称である。彼は恐らく14世紀の半ば過ぎに生まれ、最近有名になったアンゴラ(現在ではアンカラと呼ばれている)近くのシビリヒサールの住人だった。若い時にコンヤの送られて、そこのハナーフィア神学校でイスラーム教の基礎と法律を学んだらしい。従って、彼は教師あるいは『イマーム』としての資格を有し、モスクにあつまる会衆の指導者であり、さらに法官(カーディ)にもなった。イスラームの法律は慣習法で、この世のあれこれの問題を裁く唯一の法律をみなされていたが、実際の運用では、現実の問題を重視して、かなり匙かげんがあったらしい。トルコ社会で中産階級という概念が適切かどうかはわかなないが、ホジャはいわば中産階級に属していたと見てよいだろう」

 

 ナスレッディンについてチロル卿は『信仰の勝利』という意味を与えており、そういう解説は他のいくつかの本で見たことがあるが、トルコ人はナッスル・エット・ディン(英語にあてはめればhow to carry out the faithの意味)だと説明してくれた。この意見には勝利というニュアンスはなさそうだ。

 またチロル卿は、ホジャを実在の人物とみなし、彼を14世紀の後半に生きた人物と考えているようだが、たぶん、これはチムールがアナトリアに侵攻した時期に合わせて、そう考えたのだろう。トルコでもホジャが歴史上実在した人物であるという定説もあるが、それによれば、彼は13世紀に生まれて死んだことになっている。

 また、チロル卿がアンカラという地名を用いず、アンゴラという古称を用いている点も興味深い。誕生したばかりの新生トルコが存続しえるかどうかについて、必ずしも確信を持っていなかったのかもしれない。

 中産階級という欧米の社会学的な概念をあてはめている点もやや奇妙だと思う。さまざまな話の登場するホジャの姿は町人であったり、農民であったり、村々を回る巡回僧であったり、たまにはイマームや法官としても振舞っている。当時の唯一の学問であったイスラームとその慣習法(シャリーア)を学び得たという点では、ホジャのモデルになった人物がある程度経済的に余裕のあった家庭の出身者であったであろうことは推測できるが、実際のところは分からない。

 イスラーム教について、チロル卿がMohammeddan という言葉を使っていることも興味深い。これは、日本で言えばイスラームをマホメット教と表現するのと同じことで、ムスリム達はこうした表現を絶対に受け入れない。

 ほぼ百年後の二十一世紀の初頭を生きている私が、当時の人の知識的限界性についてある程度の認識を持てるのは当たり前のことだ。私は当時の英国の体制側の人物がトルコについてどのような知識を持っていたのかということ、そして、彼の言葉遣いや表現の中にある種の傾向性に興味を感じているだけだ。

 
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ほぼ百年前のホジャの本(2)
 「トルコ人達はペンより剣を使う方に長けていて、スタンボウル(Intanbulのことか)での文学サークルやオスマン帝国の官僚たち丁寧な言葉使いの大部分はペルシャやアラブからの借り物、あるいはそれらの文明をモデルにしてつくられたもので、中央アジアの平原からの未開の侵入者(トルコ人のこと)は、最初に接触したペルシャやアラブの高度に発展した文明の影響下にずっと置かれてきているのだ。ナスレッディン・ホジャは、それとは反対に、トルコの民衆の単純で気取らない言葉を話す。ホジャの話は五百年ほど前につくられたもので、世代から世代に口承で語り伝えられてきた。しかし、実際を言えば、たった二十年ほど前にも、スルタン(オスマン帝国の皇帝)であるアブドュル・ハミドによって、ホジャの話をおおっぴらに語るのを禁止されていたのである。スルタンは、帝国の権威を支える者達や特に司法権を行使する者達(裁判官など)に対してホジャがいろいろな異議を申し立てる話の中に、彼の権威を脅かす危険性を嗅ぎ取っていたに違いない。1908年の革命の後、『若きトルコ人達』(ムスタファ・ケマルなど青年トルコ党のメンバー達)がその禁令を解除したが、おそらく、ホジャの幽霊が生きていて、ジュネーヴ湖畔のコンファレンス・ホールを訪れたとしたら、トルコの正義をしゃにむに押し付けるイスメット・パシャの高慢ちきな話しぶりを聞いて、くすくす笑ったに違いない。」

 

 ホジャ話に関する評価は別にして、このくだりのチロル卿の文章は、当時の英国の体制側の人物が、新生トルコをどのように見ていたかを如実に示していて、興味深い。彼等はトルコ人を借り物の文明しかもたない野蛮人で、武力だけは猛々しいが、ろくな文化的遺産ももっていない連中だとみなしていたらしい。末尾にでてくるイスメット・パシャとは、ムスタファ・ケマルの盟友であったイスメット・イノニュのことを指していると思われる。多少荒っぽい比喩を用いれば、イスメット・パシャのムスタファ・ケマルに対する役割は、毛沢東に対する周恩来の役割に似ていて、彼が非常に聡明な人物であったことはトルコの現代史に関するさまざまな書籍のなかにたくさんの証言がある。しかし、チロル卿は『高慢ちき野郎』と感じていたのだろう。

 しかし、こうした偏見に満ちた文章のなかでも、オスマン帝国の瓦解から新生トルコ(共和国)の誕生と言う歴史の激動期に、ホジャ話という民間伝承がどのように取り扱われたのかについての消息をうかがうことができて興味深い。

 さらに、トルコ人が借り物の文明しかもっていないという論断についても、英国の歴史と対照してさまざまな反証をあげることはでき、それはそれで面白いが、後日の課題にする。紀元1000年前後のイギリス(ブリテン島)なんて、歴史の闇の中ですぜ。

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ほぼ百年前のホジャの本(1)
  私の手元に、1923年にロンドンで発行されたホジャの本(英語版)がある。ヘンリー D. バーンハムという人がトルコ語のテキストから訳したものらしいが、トルコ語の資料については記載がないから、どんな本から訳したのかは分からない。この本にはヴァレンタイン・チロル卿の序文が寄せられており、その序文のなかで「バーンハム氏とは四十年来の付き合いで、コンスタンチノープルの英国領事館で長いこと働いていたトルコ通だ」と書いてあるから、特定の本からの翻訳と言うよりは、長期間のトルコ滞在中に耳で聞いた話なども採録されているかもしれない。この本には181話のホジャ話が紹介されている。

 私にとって興味深いのは、この本の初版が出版された1923年という時期で、第一次大戦ではトルコの敵国であった英国(特に、ガリポリ半島の闘いで、チャーチルが率いる英仏連合軍がムスタファ・ケマルの率いるトルコ軍に手ひどい敗北を蒙った)の人が、当時の新生トルコにどのような認識と感情をもっていたかが、チロル卿の序文によく滲み出ていることだ。それに、現在でこそ、トルコではホジャに関する本がおびただしく発行されているが、ほぼ百年前にはホジャの本もそれほど出版されていなかったであろうし、ムスタファ・ケマルによる文字(言語)改革以前のことだから、バーンハム氏が訳した本はオスマン語で書かれていたのはないかと思う。だとすると、この本に掲載されているホジャ話は、ほぼ19世紀の終わり(あるいは20世紀の初頭)の時期までにオスマン帝国の社会で語り伝えられていた話が反映しているはずだから、ホジャ人気にあやかってその後に作り出されたような話は含まれていないはずだ。その意味でも、この文献は興味深い。

 そこで、まずチロル卿の序文を何回かに分けて紹介しようと思うが、今回はその冒頭の二つのパラグラフ。

 

「血みどろの戦争と大虐殺、そして中東の廃墟のなかから『新生』トルコが登場して来つつあると多くの人が考えているこの時期に、四十年ほど前、つまりレバント(東地中海)地域での領事業務の長いキャリアのまだ駆け出しの頃にコンスタンチノープルで初めて会った私の友人であるH.D.バーンハム氏が、トルコ国内で今でもまったくユニークな人気を誇っているナスレッディン・ホジャの風変わりな話を英語に訳して出版するというのも、ある意味では時宜にかなっている。

 そこに描かれているのは、オスマン政庁や宮殿、それに最近ではアンゴラとかローザンヌなどで西側風の装いを気取って見せている支配者側のトルコ人ではなく、ずっと素朴でより絵画的なトルコ人、単純で、無知で、辛抱強く、鈍重で、広い意味でのユーモアのセンスを身につけており、善良で楽天的だが、時には頑強な闘争者で、その人種的あるいは宗教的な情熱の放出が神によって許されたと感じた時には血を見ることも辞さないトルコ人だ。彼等は五世紀前からずっとそのように暮らしてきたし、そして彼らの『むかしからその名がひろく知られている小アジア』の地で、いまでのそのように暮らしているのだ。」

 

 英語で読んで見ると、当時の英国の体制側の人士がやや斜め上からの目線で、多少の優越感を持ちつつ(ガリポリで負けたくせに)、また片方では多少の恐怖感をいだきつつ当時のトルコを眺めていたことが良くわかる。

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アメリカ大統領選挙戦とトルコ

  アメリカの大統領選挙のための予備選で、共和党から、テキサス州知事のリック・ペリーという人物が名乗りを上げているが、トルコに関する彼の発言が物議をかもしている。彼は、トルコ現政府の指導者達をイスラム・テロリスト呼ばわりして、「トルコをNATOから追い出せ」と主張しているのだ。彼はサウス・カロライナ州での予備選討論会でモデレータ(議事進行役)の問いかけに答えて、こんな発言をしたそうだ。

 

「多くの人がイスラム・テロリストと考えている勢力によって支配されている国があるならば、そして市民に対してそんな行為をとっている国(言論の自由の抑圧やイスラエルやギリシャとの外交関係の悪化など)の実態が明らかになってきた以上、NATOにとどめておくかどうかを議論している場合じゃない。外交関係の構築は最初からやりなおすべきだ」

 

 ペリー氏のこうした発言に対して、トルコ外務省はステートメントを発表して、同氏の見解を否定した。そのステートメントで、トルコ側は以下のようなコメントを述べている。

「米国の責任ある立場になることを望んでいるなら、世界のことについてもっとよく知るべきだし、発言にも気をつけるべきだ。トルコは知事(ペリー氏)が二歳の時にNATOの加盟国になり、大西洋条約機構には多大な貢献をしてきたし、いまでも重要な加盟国なのだ。」

 

こんな話題は日本のメディアではまったく取り上げられていないが、現在のトルコの与党(公正発展党:AKP)をイスラーム原理主義者だのテロリストだのとみなすような人物が共和党のなかにいるのだということを知っておいた方がいい

 
 この記事を書き込んでから三時間ぐらい後にBBCの放送を聞いたら、はやくもペリー氏は選挙戦から脱落と報じられていた。チンピラ政治家の命運は、日本でもアメリカでも同じですね。
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