ある日のこと、ホジャは息子を連れて遠い村へでかけることになった。ロバに鞍をつけいよいよ出発ということになって、ホジャは考えた。
「息子が疲れてはかわいそうだ。やつはロバに乗せていこう」
遠慮する息子を無理やりロバに乗せて、自分はロバの手綱をとって、てくてく歩いて行くと、これを見た通りがかりの人たちが驚いて言った。
「おやまあ、いまどきの若者はなんちゅうこった。年寄りの親を歩かせて自分はのうのうとロバに乗って行くよ。恥ずかしくないのかねえ」
これを聞いた息子は、
「だから、言わんこっちゃない。おとっつあんが乗りなってば。もう頑固はなしだよ。おいら、歩いたほうが楽なんだから。さあ、さあ」と、息子はホジャをロバに乗せ自分は手綱をとって歩き始めた。しばらく行くと、また二、三の人に会った。その中の一人が驚いて、ロバに乗っているホジャに声をかけた。
「なんてこった、とっつあんよ。あんたさん、それほどよぼよぼの年寄りじゃあるまいに。この日照りの中、芽を出して間もない若木を歩かせたりしてさ。ひどい親もあったもんだ。大事なせがれがお陽様に焼かれてひからびても平気なんですかね?」
これを聞くと、ホジャは、
「なるほど。それもそうだ」と、今度は息子も自分の後ろに乗せた。こうして、二人でロバに乗りどんどん進んで行くと、また何人かの人に会った。すると、その中の一人が目を丸くして叫んた。
「いやはや、ひどいことをするものだ。一頭のロバに二人の人間が乗るなんて。しかも長旅にねえ。かわいそうに、あのロバを見ろよ。疲れてよれよれじゃないか。動物ったって情というものがないのかねえ、情というものが」
これを聞くと、ホジャは怒りだし、ロバから飛び降りると息子も降ろし、ロバには何も載せずにその後をとぼとぼ歩いて行った。しばらく行くと、また数人の人に出会いました。すると、その中の一人が、
「おやおや、あきれたこともあるものだ。ロバは空身で飛んだりはねたり楽々と前を行きよるに、人間様は、このくそ暑いさなか埃だらけ、土まみれ、汗水流してはーふー、ひーふー後ろからついて行くよ。世の中にゃあ、こんな馬鹿もあるもんなんだねえ。おつむがどうかしちまったんじゃねえか」と言った。
ホジャは道中であった人々の言い草にはほとほと閉口し、苦りきった顔で、
「いやはや、人の口のはからのがれることの出来る奴がいたら、大したものだ」と、独りごとを言ったんだとさ。
上のホジャ話はうちのかみさんが世間の口から逃れるのは難しい(ロバと息子)というタイトルで「です・ます調」で書いたテキストを「である」調に書きかえたものだ。「です・ます調」は丁寧な口調(あるいは文体)で、女性の文章はほとんどが「です・ます調」だが、むかし活躍していた文芸評論家の中村光夫さんも「です・ます調」で書いていたから、「です・ます調」が女性の文体であるとは必ずしも言い切れない。例えば、小学生の教科書の場合のように、大人が子ども達に何かをやさしく丁寧に説明しようとする時には「です・ます調」になる。要するに、威圧的・断定的な押し付けがましい口調や文体を避けようとすれば、男でも女でも「です・ます調」を選ぶのだろう。
「である」調は比較的に断定的で、主に男性が用いる口調(文体)だが、まれには女性だって「である」で語ったり、書いたりすることもある。ときどき新聞に登場する社会学者の女性の文章などは「である」調であって、別に不自然さは感じない。
外国語にだって丁寧体の表現とざっかけ(押し付け)体の表現とがあり、例えば二人称(you)については、フランス語やロシヤ語や丁寧に(あるいは親近感をこめて)言う場合と、ある程度距離を置いて言う場合とでは違っているが、英語や中国語では、この点での区別はない。これは単語レベルの問題だが、文体レベルでの丁寧体と断定・押し付け体の区別は、外国語の場合にはあまりないのではないか(これは、それほどたくさんの根拠に基づいて言っていることではないが)。この点で、「です・ます」調の口調(文体)と「である」調の口調(文体)がほぼ共存して自由に使われている日本語の世界は、世界の全体的な傾向から見れば、やや例外的なケースなのかもしれない。
民話の場合で言うと、むかしむかしで始まる昔話を語ったり書いたする場合は「です・ます」調が適しており、ホジャ話のような笑い話はどちらかといえば「である」調で語ったり書いたりした方がいい。うちのかみさんはもちろん女性だったから(あたりまえの話だが)、ホジャ話を翻訳・再話するときに「です・ます」調を用いた。ここにちょっと乗り越えがたい壁があることは、彼女がこの作業と取り組み始めた時点から感じていたが、なかなか言いずらいことだった。英語ではこの問題がないから、アリス・ケルジーの場合は、ホジャ話をトルコ語から英語に翻訳・再話する場合に、こうした矛盾に直面することはなかった。それを日本語に訳した岡村和子さんは、もちろん子ども向けに「です・ます」調で書いたから、それに影響を受けたかみさんはどうしてもその範囲を超えることはできなかった。
それに、外国の民話を日本語に翻訳・再話する場合に、社会的な慣習とか食べ物とか宗教的な観念とか儀式など、日本人にとっては耳慣れないものを伝えようとする場合にどうしても説明的にならざるを得ない。したがって、外国の民話を日本に紹介しようとする場合に、それらのことを現地で確かめて、その知見を付け加えて翻訳・再話しなければならないのだから、実を言えば、科学技術の翻訳などよりはるかに難しい世界なのだ。私は職業的には特許文献の英訳を生業としていたので、こうした科学技術分野の翻訳の方が、民話の翻訳よりはるかにやさしいことを体験的に知っている。
このあたりのことで、まだ論じなければならないことは山ほどあるが、それにしてはまた後日、すこしづつ書き込むことにして、要するに、ホジャ話のような笑い話は「である調」の男性的な口調(文体)で紹介した方がいいと、私は思う。ホジャ話のような笑い話は、どちらかと言えば男どもの座談の場を通じて語り伝えられてきたのだから。その意味で、かみさんがトルコ人からじかに聞いたり、トルコ語で読んで「です・ます」調で翻訳・再話したホジャ話を「である」調で語りなおすことは、私に残された課題なのだ。




